8月23日晩祷奨励(要旨)

   人生の片隅から真ん中に
              マルコによる福音書三章一〜六節

   

                           2005年8月23日
                 日本基督教団国分寺教会 牧師 若月 健悟

 アイラブカードに何を書くか、考えながらいつものくせで、あれもこれも「アイラブ」であることに気づきました。それでわたしはこう思いました。愛は単層ではなく重曹構造ではないのかと。表面の第一層「金銭愛」、その下の第二層「家族愛(そのなかでも妻優先で子どもはその次)」、もっとも深い第三層「教会愛(その核は主イエス・キリスト)」。このように考えると、みんな大好きといえるように思えるのです。イエスさまの愛を基として、現実の愛がそれぞれの場面に応じて現れてくるのではないかと。いかがでしょうか。

 片手の萎えた人にむかってイエスさまはいわれました。「真ん中に立ちなさい」。このみ言葉にとても深く慰められるのを覚えるのです。その人のこれまでの営みを想像しますと、どんなに辛い日々を送ってきたことか、と思わされるのです。ですが、イエスさまは人生の片隅に生きてきたその人を人々の真ん中に引き出し立たせてくださったのです。人生の真ん中に立つ、それは、イエスさまに出会い、イエスさまと向き合い、イエスさまに寄り添っていただいていっしょに歩みだす人生の新しいはじまりを告げることを意味するのです。この人はもはやひとりぼっちではないのです。イエスさまがいっしょにいてくださるのですから。

 しばらく前のことですが、主日礼拝が終った午後、その日はめずらしく何も予定されていない日でした。礼拝堂を整理し、戸締りをしていたときのことでした。ひとりの方が礼拝堂に入ってこられました。見るからに金銭を求める風体でした(既に偏見がありましたが)。座っていただいて、しばらくお話しをうかがいました。いつもですと気ぜわしくて十分にお話しをうかがうこともしないで、いくらかのお金を包んでお渡しするのですが、その日は気持ちにゆとりがあり、じっくりとお話しに耳を傾けました。  お話しをうかがいながら、求めているのは、確かにお金であるとの確信を得たのですが、もう一方で「残してきた娘さん」のことが気になり、根掘り葉掘りうかがいました。そうしますと、十数年前に別れてきた娘さんへの情絶ち難く、心のどこかで「会いたい」との思いがあることが分かりました。昔の電話番号をうかがい、電話をしてみました。すると娘さんであることが分かり、事情をお話ししました。そうしますと「すぐに迎えに行くので、父をそこにとどめておいてください」とのことでした。

 それから二時間、教会の近くのレストランで遅い昼食をとっていたわたしたちの前に娘さんが現れ、辺りかまわずに、大声で父親を叱責しはじめたのです。その声に圧倒された父親は頭をたれて肩をすくめ、身を縮めて、今にも消え入るばかりでした。涙ながらに訴える娘さんの言葉には、とても深い父への愛を感じました。しばらくして、ふたりは車で帰って行きました。ふたりの後姿が、なんともほほえましくぬくもりを感じさせる親子の姿に映りました。

 人生の終わりを迎え、よれよれになったひとりぼっちの姿は、なんともあわれでした。ですが、娘さんの登場によって、たそがれどきの黄金色が一瞬輝きを放ったように感じました。娘さん家族とともに生きる、ようやく人生の真ん中に立ち戻れたように思えました。

 イエスさまは、わたしたち一人ひとりに出会ってくださり、人生の片隅にあるときにも人生の真ん中に導き出してくださっていわれるのです。
 「真ん中に立ちなさい。そしてわたしとともに生きよ」と。
 イエスさまのみ言葉に導かれ、寄り添っていただいて歩みましょう。
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